偉人伝
埼玉県の社会保険労務士熊谷支部に関連した地域出身の、偉人の方々を紹介させていただきます。
熊谷直実(くまがい なおざね)
(写真提供 熊谷市)
熊谷直実(永治元年から承元元年)
熊谷市の生まれ。幼名を弓矢丸という。一騎当千の武将として名高く、一の谷の合戦では、平敦盛を呼び返し討ち取ったことは有名。
文治3年の鶴岡八幡宮流鏑馬での的立役を不満とし、建久3年には、久下直光との所領境界争いに敗訴するなどのことから、ついに出家し、法然上人の仏門に入り蓮生を名乗った。 京都粟生に念仏三昧院を開き修行する。武蔵村岡(現熊谷市)にて大往生を遂げた。
塙保己一(はなわ ほきいち)
(写真提供 本庄市)
塙保己一(延享3年から文政4年)
本庄市(旧児玉町)出身。7歳の時に失明したが、国学者となる。古典典籍類の
散逸を嘆き、それらを広く収集し一大叢書として『群書類従』666冊を完成させる。
ヘレンケラーの尊敬する人物だったと言われている。
荻野吟子(おぎの ぎんこ)
(写真提供 熊谷市)
荻野吟子(嘉永4年から大正2年)
熊谷市俵瀬出身。日本初の女性医師となった才女。18歳で結婚したが病になり離婚する。この時、婦人科の治療を男性に診察された羞恥から女医になることを決意した。当時は、女性が医者になることは不可能だったが、法の改正を働きかけ、明治17年、医術開業試験に女性で初めて合格する。
その後、東京と北海道で創院して医療に当たるとともに、女性解放の先覚としても多くの功績を残した。
熊谷市俵瀬出身。日本初の女性医師となった才女。18歳で結婚したが病になり離婚する。この時、婦人科の治療を男性に診察された羞恥から女医になることを決意した。当時は、女性が医者になることは不可能だったが、法の改正を働きかけ、明治17年、医術開業試験に女性で初めて合格する。
その後、東京と北海道で創院して医療に当たるとともに、女性解放の先覚としても多くの功績を残した。
渋沢栄一(しぶさわ えいいち)
(写真提供 深谷市)
渋沢栄一(天保11年から昭和6年)
深谷市の出身。「論語」の精神を重んじ、「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と500余りの近代企業の確立に努めた。社会公共事業にもとても熱心で、「忠恕のこころ」(まごころと思いやり)を基本理念とし、多くの病院や学校づくりに尽力するほか、国際親善にも寄与した。